修行(雲水の生活)

相見
しょうけん

 参堂を許されて半月にもなったであろう。禅堂内の厳しい規矩(きく)にも少しは慣れたころ、知客寮から相見香(しょうけんこう)の用意をするようにと伝えられる。相見香とは道場主である老師に初めてお目にかかって、師弟の礼をとり、参禅入室(さんぜんにっしつ…指導)の許しを乞うときの入門時の礼物のことである。
現在では若干の金子を白紙に包み、水引きをかけ、表に小さく自分の名前を、その下に筆太に九拝と書くのだが、往昔は必ず香を包んだそうである。
 相見の部屋では必ず一炷(いっしゅ…一本、一片)の香が薫じられることは今も昔も変わらない。香がたかれるということは、この人をわが師として、生死の一大事を聞法し、永く師弟関係を結ぶという誓約であって、禅門古来のたいせつな儀礼として、大きな意義をもつものである。お茶やお華やその他の芸事のお稽古の初めに、束脩(そくしゅう)と称する入門料を差し出すのとは白雲万里の違いである。
 思えば苦しかった二日間の庭詰も、孤独で退屈な旦過の三日間も、不慣れな禅堂内の規矩になじむ努力もみんな、今日この師に会って聞法するための辛抱にほかならない。願わくは師よ、われを引導し、安心させたまえ、とひそかに念じながら、前もって教えられたごとく型どおりに、室の入口の敷居ぎわで坐具を展べて、三拝する。老師はそれに対して黙然と合掌して応えられる。つづいて出された茶をすすり終わると、初めて第一声が発せられて、姓名、授業寺(じゅごうじ…得度して戒を受けた寺)、教育などについてたずねられる。
 現在では、初心者に対し、このていどで簡単に終わってしまうが、古人は初相見時でも問題の核心にふれて商量(しょうりょう…問答)されている。
 「雲水二十、師家四十」というが、禅の修行には相互間の年齢もまたいささか影響がある。今の僧堂修行は形骸化されたとか形式主義だとかいう声も聞かされるけれども、僧堂生活を体験するのに必須の条件は、やはり若さである。体力がなければ、その厳しさにはついていけない。
 師家もまたこれら大勢の雲水を指導するにはそうとうな体力を要するばかりか、それにもまして大事なことは、修行者に対して「涓滴(けんてき…ひとしずく)も施さない」という大慈悲心であり、親切心である。それにはやはり四十代、五十代の真の盛りの師家がよいと思う。師家も人間で、歳をとるにしたがい、人情に堕し、押したり引いたりして、つい手を貸す老婆親切になりがちになる。室内のことに関するかぎりは「両者は仇敵同士」とさえいわれるが、みずからの努力で開悟せしめるための親切心を表現した言葉である。
 初心者にとって、初めての相見の印象は脳裏に深く刻みこまれて、いつまでも忘れがたいものとなる。
 老師。それは一見ラチもない田舎おやじみたいであり、ボロボロに刃のこぼれた大鉈のような感じがする。だが、そこに捨てがたい魅力を蔵しているのだ。俗っぽい表現だが、この田舎おやじに一目ぼれして、そこはかとない信頼感さえ生じ、やがてトリモチに引っかかった小鳥のように手も脚も出ないようにされるのだから不思議である。